メロウ Mellow
ぷくぷく ぶくぶく
泡沫が わきおこり
ぷくぷく ぶくぶく
泡沫は 水面へ昇っていく。
深海の発光する生き物に照らされ、泡沫はときおりキラキラと光っている。
― 地上から見える星というのは、こんな風に光るのかしら。
メロウは、そんなことを考えながら泳ぎのぼっていました。
人魚の女の子は、十七歳になった最初の満月の夜にはじめて海の上にいくことをゆるされます。
メロウにとって、今夜がその日なのです。
メロウは昨日の夜、姉さんたちに言われたことを思い出していました。
― 決して人間に姿を見られてはダメよ。あいつらはなんでも欲しがるの。見つかったら最後、わたしたちを手に入れるまで追いかけてくる。
姉さんたちはとても真剣な顔でそう言いました。
― でもでも、わたしは人間を見てみたい。足が二本あるという人間を。
人魚たちが暮らすサンゴに囲まれた海底には、難破船から運ばれた様々な人間のモノがあります。その中に美しい少年の彫刻があって、それはメロウのお気に入りでした。
― 人間は信用できない、と姉さんたちは言うけれど、それは本当なのかしら?人間は、わたしたちが持っていないモノをたくさん持っている。たとえば、愛。
遭難して海に沈んだ大きな船の中を探検したとき、メロウは美しい女の人の写真が入った銀のペンダントをみつけたことがあります。その裏には「愛をこめて」という言葉が彫られていました。
― 姉さんたちは、それを求めるあまり人間はおろかにもなるし残酷にもなると言うけれど、でもあんなにキレイなペンダントは、いままで見たことがない。
わたしは、人間のことを知りたい。
まんまるの月が海面に映っているのが見えてきました。
それに向かって、メロウはぐんぐんと泳いでいきました。
ザブン
メロウが勢いよく海面に跳ね上がりました。
― うわぁ。
月の明かりが海面を照らし、夜空も海も溶けあって、世界が青く銀色に輝いているようでした。
よろこびのあまり、メロウはその美しい尾を波にパシャリと打ちつけました。そのとき、なにかが触れたのがわかりました。それは木の破片でした。あたりを見ると、いろいろなモノのカケラがたくさん浮かんでいました。
― 嵐でもあったのかしら?
ふと、かすかに音が聞こえる気がしました。耳を澄ませてみると、そんなに遠くないところからうめくような声がします。波間に黒い影のようなモノが浮かんでいるのが見えました。メロウは、おそるおそる近づいていきました。
― 人間?
漂流した板の上に、メロウと同じ年ごろの少年が横たわっていました。ときおり苦しそうにうめき声をあげると、少年の閉じた瞳がふるえるのがわかりました。
― このままだと、この子は死んでしまう。
その顔は、彫刻の少年によく似ていました。メロウはこの少年を助けたいと思いました。
遠くに明かりの見える陸に向かって、メロウは少年が横たわる板を押し泳ぎはじめました。
その間にも、たくさんのなにかの残骸が海の上を漂っているのを見ました。時おり、大きなモノが波に乗ってメロウと少年に向かってくるので、それを器用に泳ぎ抜けなければなりませんでした。それでも少年を置いてきぼりにしようとは、これっぽっちも思いませんでした。
陸地に近づいてきたころには、すでに朝になろうとしていました。太陽が、はるか向こうの水平線に顔をだす瞬間をメロウは見ました。空と海が青く紅く染まり一瞬ひとつになりまた離れていく様に、しばらく泳ぐのも忘れ魅入っていました。
― なんてキレイなんだろう。
メロウは思わず歌を口ずさみました。それはとても美しい歌声でした。
そのとき、少年がかすかに目を開きました。
メロウは、びっくりして少年を見つめました。
少年のうつろな瞳がメロウをとらえました。
ドキン
メロウは、なぜだか鼓動が早くなるのを感じました。
― キミは?
メロウは答えることができません。
少年は暗褐色の静かな瞳をしていました。
ドキドキ ドキドキ
メロウの心は高鳴ったままです。あまりにドキドキしたので、この鼓動を聞かれはしまいかと思いましたが、少年は再び目を閉じると、その後はまったく身動きさえしませんでした。
メロウは、入江の岩のところまで海が深く入りこんだ砂浜に少年をそっと横たえると、耳につけていた真珠のイヤリングを片方はずし、少年の胸の上にそっと置きました。
― どうか助かりますように・・・。
しばらく岩場にかくれて少年を見守っていると、日が昇りあたりが明るくなったころ、ひとりの少女が少年を見つけました。メロウはようやく安堵し、姉さんたちの待つ海深くへ戻っていきました。
***
― わたし人間になりたいの。
メロウは、目の前にいる魔女のおばあさんに言いました。
― おやまあ、そりゃ恋をしちまったんだねえ。
おばあさんは、にっこりと笑いました。
海の上に出た満月の夜から、メロウはあの少年のことばかりを想っていました。十七歳の少女にとっては、あの美しい銅像に似た少年と目があったというだけで、恋に落ちるには十分だったのです。
― あの瞳に見つめられて、わたしの心はふたつに割かれてしまった。会いたい・・・もう一度、あの人に会いたい。
わたし、人間になりたい。人間になってあの人のそばにいたい。
そんなこと、人間をこころよく思っていない姉さんたちに相談できるはずもありません。メロウは思い切って、水底の渦の向こうに住むという「魔女」と呼ばれるおばあさんに会いに行くことにしました。人魚の誰よりも長く生きて世界の全てを知っているというそのおばあさんなら、人間になってあの人のそばに行ける方法を知っているかもしれないと考えたのです。おばあさんは長い間だれにも会うことなく一人で暮らしていて、深海に沈んだ人間の魂を食べて生きているといううわさもありましたが、メロウは少年に会いたいという一心で渦の中に飛び込みました。
目の前にいるおばあさんの魔女は、想像していたのとは違ってとてもやさしい顔でした。ただひとつ、おばあさんには左の目がありませんでした。左目は空っぽで、その中に黒い闇が無限に広がっているようにも見えました。
― あの人に会いたいの。
― 会ってどうする?
― わからない、でも会いたいの。人間になって、あの人のところに行きたいの。
― 人間のような足がほしいのかい。
― そうよ。どうすればいいの。
― 二本の足になるのなんて簡単なことさ。陸に上がって身体がすっかり乾けば、その尾は足に変わるんだよ。
― そうなの?!
― そうさ。人魚も人間も、もとは一緒だからね。
― ああ、人間になれる!
メロウは喜びのあまり、おばあさんの周りを跳ぶように泳ぎました。
― そんなに喜ぶもんじゃないよ。人間と同じ姿になれたからといって、人間になれるわけじゃないんだ。
メロウは、とまどったようにおばあさんを見つめました。
― いいかい、よくお聞き。わたしたちは人魚なんだ。濡れればすぐにまたもとの姿に戻ってしまう。それにね、人魚は陸で長く生きることはできない。水の深いところで暮らしてきた人魚は太陽の光を浴びた途端、身体が急激にぼろぼろになってしまう。人魚は三百年だって生きることができるが、光を浴び続ければ人魚の身体は粉々になってしまうんだ。
― それでもいい、身体が粉々になってもいい。わたし、あの人のそばに行きたい。人間になりたい。
おばあさんは、困ったようにひとつため息をつきました。
― 本物の人間になれる方法がないわけじゃないよ。
メロウの顔がぱっと輝きました。
― 愛を知ること。そうすれば人間と同じように生きることができる。
― 愛・・・姉さんたちはおろかなモノだと言っていたわ。
― たしかにそんな一面もある。でも、愛は人間の中でいちばん尊いものさ。愛を持っているというだけで、神さまはすべてをお許しになってしまうのだから。
― 愛を持つにはどうしたらいいの?
― お前がその人から愛されること。そしてお前がその人に愛を与えること。そうすれば、本物の人間になれる。
― ねえ、おばあさんも人間になろうとしたことがあるの?
― おやまあ、どうしてそう思うんだい。
― だって、愛が尊いものって知ってるんだもの。
おばあさんが、メロウを見つめました。
― もうずっと昔のことさ。
がらんどうの左目の奥に深い悲しみが宿っているようでした。
― 愛は、あたえ続けたいというたったひとつの願いさ。でも、愛を知ろうとすると、他のいろんなことも知らなきゃいけない。疑うこと、嫉妬すること、絶望すること・・・それでもおまえは愛を目指すかい。
メロウは、こくりとうなずきました。
― じゃあお行き。でも気をつけるんだ。絶対に人魚だってばれてはいけないよ。人魚は人間にとって鍵になってしまう。人間の禁断の欲望の扉を開けさせてしまうためのね。
おばあさんは、このときばかりはとてもこわい顔をしたので、メロウも青ざめてしまいました。
― でも大丈夫。なにかあれば海に戻るんだ。月を頼りに帰ってくればいい。
そう言うとおばあさんは、もとのやさしい顔でにっこりと笑いました。
― 一日一回は水の中に入って人魚の姿に戻ること。そうすればすこしは寿命も伸びるってもんだ。
メロウは大きくうなずきました。
― 今夜は満月だ。大潮に乗って夜明け前に海の上に行くがいい。
おばあさんに見送られ、メロウは上へ上へと泳いでいきました。
***
安藤茂男三十二才。SNSでは「シゲヲ」と名乗っている。名前の末字をヲタクの「ヲ」に替えただけで何のひねりもないのだが、自分では気に入っていた。シゲヲは、アイドル歴十五年。すでに古参の部類に入る。
そのシゲヲは、冬の早朝の浜辺をトボトボと歩いていた。自動車工場の夜勤明けの今朝、どうにもそのままひとり暮らしのアパートに帰る気にはなれず、なにかある度にひとり訪れるこの浜辺まで足を延ばしたのだ。昨夜は満月だったから、この時間の引き潮は大きい。シゲヲだけが知る(と勝手に思っている)入江の浜辺までは、歩いていくことができる。海から吹きつける風は頬を刺すように冷たかったが、そんなことは気にならなかった。シゲヲはひとりになりたかった。一昨日、シゲヲの推しアイドルが突然卒業を発表した。シゲヲにとっては晴天の霹靂だった。推しを失った経験は過去に何度かあるはずなのに、「僕のまほりん」が、自分の前からいなくなってしまうことなど想像さえしていなかった。
が、誰もいないだろうと信じていた浜辺には、波打ち際に何かが横たわっていた。大きな魚?それにしてもデカい。
近づいてみると、それは魚ではなかった。
― 人だ・・・しかもとびきりキレイな女の子、いや少女といったほうがいいか・・・
抜けるような透明な肌、閉じられた瞳は黒々とした長いまつ毛で覆われている。ほんのり開いたくちびるは薄バラ色で、腰まであると思われる髪は銀白色に波打っていた。胸元には美しい真珠のペンダントがあった。
シゲヲはしげしげと少女を見入った。
「かっ、かわいー」
だがその視線が、ギクリと止まった。少女の足のひざから下が、ウロコでびっしり覆われていたのだ。
「げっ」
驚き固まっている間に、朝の光が少女の足元にあたりはじめると、少女の足からみるみるウロコが消えて、きゃしゃな美しい足へと変わっていった。銀白色の髪の毛は深い闇のような黒色に変化していった。
「!!!」
シゲヲは心の中で叫びながら、ただ目の前で起こっていることを凝視していた。
少女が突然、パチリと目を開いた。
「うわあ」
シゲヲが驚いて飛び退く。少女が見つめる。濃い青緑の瞳が、濡れたような黒に変わっていく。
「あなた誰?」
「あっ、シゲヲです」
「シ・ゲ・ヲ」
少女が確かめるように口にする。
「あっ、えっ、キミは?」
「メロウ」
少女の声は、水音のように涼やかだった。
***
目を覚ますと、人間のオス、いや男が目の前に立っていた。
メロウは、あわてて自分の腰から下を見た。二本の足がある。
ほっとして、ふたたび男を見る。
シゲヲという、このずんぐりとしてメガネをかけた男は、レンズの奥の目をパチクリとさせながらメロウを見ている。
見られた?とも思ったが、たぶんこの人間は悪い奴じゃない、メロウはそう思った。
かたわらに、白い大きな巻貝があった。これは、魔女のおばあさんが、さびしくないようにとくれたものだ。取り上げて耳に当ててみる。海の、深海の音が聞こえる。
メロウは立ち上がり、歩くということをこころみた。なんだかふわふわした気持ちだ。細かな砂に足の沈みこむ感じが心地いい。太陽の光がメロウの白い肌を照らす。そこにぬくもりを感じる。だがこの暖かみは、メロウの身体をもろくもするのだ。
あたりを見渡してみる。あの人を運んだのは、入江の奥まったこの浜辺に間違いないと確信した。
と同時に、とんでもないことに気づいた。
― わたしあの人のことなにも知らない!どうしよう!
メロウはしばし考えたのち、まだぼうっと突っ立っているシゲヲを見つめた。
― そう、この人は悪い人じゃない。
メロウに見つめられたシゲヲは、ドギマギとまた目をパチクリさせ顔を赤らめた。
***
― 若い女の子をアパートに連れてくるとか、いいのかな。
シゲヲは悩んでいる。
― でも、ついてきちゃったしな。
メロウはもの珍しそうに、シゲヲの住む築二十年のアパート二階2Kの部屋をのぞきまわっている。台所の流しに放置されたままのカップ麺の容器を見られたときは「しまった」と思ったぐらいだったが、テレビ横の棚に置いてあるシゲヲ自慢の歴代推しDVDコレクションを勝手に手に取りだしたときには、さすがに「触るな!」と大きな声を出した。びっくりしたような顔でメロウがシゲヲを見る。あどけない瞳が大きく見開かれている。「あー、もう、かわいー!!!」シゲヲは、もうそれ以上なにも言えなかった。
― というか
シゲヲは、今朝見たことを考えている。
― この子は人魚?いやいやいや、あれはまぼろしだ。推しを失ったことによる幻覚・・・とりあえずそうしておこう。
そう思いながら、シゲヲはテレビをつけた。
いきなり、まほりんが画面に映し出された。
人気アイドルグループT―RATSのダブルセンターを担っていたまほりんの卒業が、ワイドショーでも取り上げられていたのだ。
「まほりーん」
思わす涙ぐむ。いつだってシゲヲは単推しだ。一度好きになると推し替えはしない。一生懸命に応援する。できる限りCDを買い、全国どこのライブにも行く。名前と顔を覚えてもらうことを喜びとし、握手会のときには失礼のないように制汗スプレーだってするのだ。
「なにこれ?」
メロウが食い入るようにテレビを見つめていた。
「T―RATSだよ」
「?」
「知らないの?いま人気のアイドルグループ」
「アイドル・・・」
メロウは、まばたきもせずに画面をじっと見ていた。
***
最初に見たとき、これは海の中なのではないかとメロウは思った。暗闇に浮かぶ様々な色の光が曲に合わせて揺れている。まるで深海で光を放つ魚たちのようだ。その光の中心にいるアイドルと呼ばれる女の子たち。
メロウにある考えがひらめいた。
― わたしもアイドルになればいいんだ!アイドルになれば、こんな風にたくさんの人に見てもらえる。たくさんの人が会いに来てくれる。そうすれば、いつかあの人もきっとわたしを見つけてくれる。いつか、いつか、めぐりあえる。
メロウは、宣言した。
「わたし、アイドルになる!」
シゲヲが、びっくりしたようにメロウを見た。
***
メロウは、シゲヲが寝ている間も仕事に出かけている間も、 テレビを見つづけ人間の生活というものを学んだ。
テレビから愛という言葉が聞こえてきて、その多くは映画かドラマの中からだったが、それを注意深く観察した。愛しているという言葉が様々な言語で語られる・・・I love you. 我愛你 Je t'aime. Ti amo. ・・・ でもいくら見たところで、愛がなんなのかさっぱりわからなかった。
***
目の前でメロウが、アジを両手に持ちかぶりついている。
「箸を使え!」
「だってこのほうがおいしいよ。楽だし」
「アイドルは手づかみで魚にかぶりつかない!」
メロウはしぶしぶシゲヲの差し出す箸を手に取った。
アイドルになると宣言してから、メロウはシゲヲの持っているDVDを観ながら、踊ったり歌ったりしている。歌はおどろくほど上手い。上手だねと褒めたところ、あまり真剣に歌うと人が事故を起こしたり、機械が壊れることもあるみたいだからそんなに上手く歌わないようにしていると言った。
「アイドルになるのに必要なものは?」
「まず笑顔だね」
メロウはため息をつく。
「笑顔、苦手なんだよね」
そおいえばメロウが笑ってるとこってみたことないな、とシゲヲは思った。
「こういうのが笑顔っていうんでしょ」
見ると、両手で唇の端っこをギュッと上へ持ち上げている。
「それは笑顔じゃない。変顔っていうんだ」
「じゃあ、笑うってなに?」
「笑ったことないの?」
うーん、とメロウはうなだれている。
「楽しかったこととか考えてみてよ、そしたら自然と笑顔になるから」
「・・・」
「ほら、たとえば好きな人のこととか考えると自然と笑顔になったりするだろ」
メロウの頬が、ぽっと赤くなる。
んっ?好きな人がいるのか、シゲヲの気持ちがすこし沈む。
「なんでシゲヲはアイドルが好きなの?」
ダイニング兼リビングの壁に貼ってある、いまではすこし色あせたアイドルのポスターを見ながらシゲヲが答える。
「笑ってくれたんだ」
「?」
「はじめてライブに行ったとき、目の前で笑ってくれたんだ」
「それだけ?」
「それで十分だよ。人を好きになるのなんて」
「・・・うん、そうだね」
そう言ってすこし目を伏せたメロウを見て、シゲヲは再び沈むような気持ちになった。
「あとはさ」
シゲヲは、自分の奥のキュッとした気持ちを振り払うように言う。
「たくさんの人に好きになってもらえように努力すること」
「好きになってもらう?」
「アイドルはそれが仕事だから」
「そこはがんばるよ」
「じゃあこれ」
シゲヲが一枚の紙を差し出した。
シゲヲがメロウに見せたのは、あるアイドルオーディションの募集チラシだった。大手芸能プロダクションではないが、牧野ゆうかという人気アイドルの所属する事務所が、その妹としてアイドル候補を募集しオーディションを行うというものだ。
「これ、受けたらどうかな」
メロウが一瞬、微笑んだように見えた。
***
天気のいい朝だった。春にはまだすこし早かったが、ベランダからはやわらかな匂いがした。
「人をたくさん見ることができる場所ってどこ?」
メロウがシゲヲにたずねた。オーディションの前日のことだ。
「うーん、駅とか?でもなんで?」
シゲヲがそういってる間に、メロウはすでに玄関の扉を開けていた。
「あーもう」
シゲヲがあわてて追いかける。
駅近くのビルの屋上なら、なるほど行きかう多くの人を見ることができる。
「でもこんなところから何を見るの?」
「人の顔」
「えっ、それは、その、識別できるってこと?」
「うん」
それから、メロウはただじっと地上を見つめ続けていた。
メロウが、誰かを探しているのではないかということは、薄々感じていた。そしてそれが、好きな人なのではないかということも。
シゲヲはメロウの横顔を見つめた。はじめて出会ったときより、さらにその肌が白く透きとおっているように思われた。
空が赤く染まりはじめた。
メロウは、いつも持ち歩いている白い巻貝をときどき耳にあてている。
「なにが聞こえるの?」
「海のうたごえ」
ビルを渡る風が、すこし肌寒くなってきた。
「もう帰ろうよ。風邪ひくよ」
「シゲヲは先に帰ってて」
夕焼けが、あっという間に消え去ろうとしている。
「ひとりになりたいの」
街に夜が訪れようとしていた。
***
― 今日も見つけることはできなかった。
メロウは、ひとりビルの屋上から夜空を眺めていた。
星は無数にある、らしい。シゲヲがそう言っていた。輝いている星は特別で、輝けない星が限りなくあるのだ。
ひとつの星が大きくまたたいて、語りかけてきた気がした。
「キミなの?」
「そうよ。わたしはここにいる」
いまこの瞬間、あの人もまたわたしのことを探してくれてたらいいのに・・・とそう思った。
ただ、会いたい・・・それだけの願いがなぜこんなにもむずかしいのだろう。
巻貝を耳にあてる。
―まだ大丈夫。
そう聞こえた気がした。
再び、星がまたたいた。
―わたしは輝く星になる。あの人に見つけてもらうために、 一番のきらめく星になるんだ。
***
シゲヲはひとり、肩を落としながら夜道を歩いていた。メロウから「ひとりになりたい」と言われたのが、思った以上にショックだったのだ。メロウがアイドルになることも、誰か好きな人を探していることも、すべてを応援しようと思っていた。だが、ひとりになりたいと言われたとき、心の奥がチクリと痛んだ。この痛みは推しを失ったときのものとは違う。ブンブン、シゲヲは沸き上がってくる気持ちを振り払うように大きく首を振った。
― 僕は応援するんだ、全力で。それがアイドルファンである僕の存在価値なんだ。
***
林(マネージャー)の話
正直びっくりしましたね。オーディションでメロウの歌を聞いたときは。場の空気が一瞬で変わった。圧倒的でしたね。これはカネになる、瞬時にそう思いましたよ。
アイドルっていうのは、届きそうで届かないっていう距離感が大切なんです。キレイすぎてもいけないし、歌が上手すぎてもいけない。メロウはすべてが真逆でした。アイドルは常に笑顔が基本だけど、彼女は上手に笑うこともできなかった。でも僕は、いけると確信しました。だって飽和状態でしょ、アイドルも。笑わないアイドルがいてもいい、そう思ったんです。その子がアイドルとして一生懸命がんばる中で、ファンと一緒に笑顔になっていく。そんなストーリーがあってもいいと思ったんだ。
それにね、なによりあの目ですよ。瞳って言ったほうがいいのかな。深いんですよね、瞳が。人を吸い込む感じ。そういう子は売れるんです。
***
「あーっ、もー!!!」
さけび声をあげてメロウはスマートフォンを投げだすと、そのまま床に倒れこみ、うーっとうなり声をあげている。
メロウはあっさりとオーディションに受かり、歌とダンスのレッスンに通うようになった。同時に公式ブログとYouTubeチャンネルが開設され、こうしたレッスンの合間にも、こまめにツイッターやインスタグラムの更新をするように事務所から言われている。スマホを持たされたものの、メロウにとってはすべてがチンプンカンプンだった。
SNSを使った宣伝活動は、効果も高いが一歩間違っただけで炎上してしまう。そのため最初に事務所から使い方のレクチャーがあった。そのときに、恋愛御法度ということも申し渡され、それゆえメロウは好きな人を探すためにアイドルになるということは、誰にも言わないでいた。
クスクスと笑い声が聞こえてきた。
「あ、としか書いてないじゃん」
牧野ゆうかが、メロウのツイッターを自身のスマホで見ながら、楽しそうに笑っている。
ダンスのレッスンは合同で、他に同じオーディションで受かった田中ひなもいる。
すこし離れたところに座りこんでいるひなは、ダンスのレッスンの様子などを慣れた手つきでアップしている。
「どれどれ」
肩までのびる黒くつややかな髪をゆらしながら、ゆうかが近づいてきた。クリっと大きな瞳が、いたずらっぽく笑っている。愛くるしいとは、ゆうかのような女の子のことをいうのだろう。ゆうかはメロウのスマホを取り上げると、床に寝そべっている姿を写真に撮って、そのままメロウのインスタにアップした。
「ほら、簡単じゃん」
メロウが起き上がり、うるうるした瞳でゆうかを見つめる。
「教えて!ゆうかちゃん」
ひとりっ子のゆうかにとって、メロウはとつぜんにできたまさに妹のようで、なんでも聞いてくるところが、くすぐったいようなうれしい気持ちだった。
レッスンスタジオの扉を開けてマネージャーの林が入ってきた。
「まだスマホと格闘してんのか」
ふたりの様子を見て、林が声をかける。
「ゆうかちゃんのおかげで、もうすぐちゃんとできそうです」
「でなきゃ困るよ。初ライブが決まったんだから」
次に予定されている牧野ゆうかのライブで、候補生としてメロウと田中ひなが一曲ずつ歌うことになったのだと林が告げた。事務所は定期的にレッスン風景などの動画をアップしていて、その視聴数は順調にのびていた。とくに、メロウの歌のレッスン動画は、その上手さからはやくもネットで話題になっていた。
「ただし、お前はダンスを徹底的に練習しろよ」
メロウはダンスが苦手だ。軽やかなのだが、振りの最後でピタッと止まることができない。どうしてもゆらっとしてしまう。というより、プルンとしてしまう。魚みたいだな、と林は思っていた。
「もうすこし、重力になれれば大丈夫です」
「なにだよ、それ」
ゆうかがまた、クスクスとおかしそうに笑った。
そのやりとりを、ひなは憎々しげに見ていた。
***
田中ひなは幼稚園のころからアイドルになりたかった。それはいままで一度も揺らいだことはない。親にせがんで習いはじめた歌とダンスのレッスンも一度だって休んだことはない。鏡の前でどの角度が一番かわいく見えるかを研究し、華奢な体形を維持するために甘いものは一切口にしない生活を送ってきた。努力が自信となって、自分でも手ごたえを感じていた。だからオーディションに受かるのは当然だと思っていたし、受かることはひとつのステップとしか考えていなかった。だけどどうだろう。同じオーディションで受かったあの子は、ぽっと出てきたような顔をして、歌も上手ければ、顔だってキレイなのだ。メロウの存在が、ひなのいままでのすべてを否定しているような気がした。牧野ゆうかだってそうだ。あんなに楽しそうに笑って。わたしたちはライバル同士なのに。人気があるといっても、ゆうかぐらいのレベルは世の中にあふれている。たしかに実物は想像していた以上にかわいい。そして何よりオーラがある。そこに立っているだけで惹きつけるものがある。でもだからといって、ゆうかがものすごく特別なわけではないのだ。スターと呼ばれる人になるには、もっともっと光を集めなくてはいけない。目もくらむような光を放たなくてはいけない。わたしはそんな人になれるのだろうか。これからの遠い道のりを考えると、絶望したくなる。アイドルになりたいという夢は、夢のままであるほうが幸せではないのか。一歩踏み出すのが怖い。
「ひな、お前もだ。いままで以上に歌もダンスもやり込めよ」
「はい」
でも進むしかない。だってわたしはアイドルになるために生きてきたのだから。
***
「ねえちょっと付き合ってよ」
レッスンの後、ゆうかがメロウに話しかけてきた。
「遊びに行こうよ」
レッスンのあとメロウが、いつもひとり残ってダンスの練習をしているのをゆうかは知っていた。なんどもなんども上手くいかなかったところを繰り返す。その表情はとても真剣で、なにか切羽詰まったものが感じられた。でも、たまには息抜きも必要だ。ゆうかは経験でそれを知っている。
「高校行ってないんでしょ」
「うん」
「じゃあさ、女子高生がやるようなこと一緒にやろう。わたしもガッコあんま行けてないんだ」
夜がはじまろうとしている街は、昼間の緊張から解き放たれて、どこか安堵の空気に包まれている。
「ねえ、プリクラやろ」
「???」
「えっ、知らないの?マジか」
パシャ
ふたりで顔を寄せ合って
パシャ
ポーズを決める
パシャ
裏ピースサイン
パシャ パシャ パシャ
「なにやりたい?」
ゆうかがメロウにたずねる。
「バナナチョコクレープ、というものを食べてみたい」
「いいねー」
メロウは楽しかった。誰かと一緒に何かするということのすべてにワクワクした。となりに、ゆうかがいることもうれしかった。これが友だちというものなのかな?と考えていた。
「なんでアイドルになろうと思ったの?」
と、ゆうかがメロウにたずねてきた。
ふたりはカラオケのあとで、街中にある公園のベンチに腰掛けて、甘ったるいキャラメルマキアートを飲みながら、道行く人びとをながめていた。
「見つけてほしくて、見つけたいから」
「なにそれ」
「ゆうかちゃんは、どうしてアイドルになろうと思ったの?」
「スカウトされたんだ」
「すごい!」
「もともと歌うの好きだったし」
「人気がでるのってどんな感じ?」
「やっぱりたくさんの人に応援してもらうのってうれしいし、がんばろうって思うよ」
「うん」
「でもね、ときどき自分が張りぼてみたいに思えることがある」
「張りぼて?」
「うん。中身がないの。アイドルってさ、いつだってアイドルでいることを求められるんだ。それに応えよう応えようって努力するんだけど、そうすればそうするほど自分の中身が空っぽになっていくような気がする。牧野ゆうかってアイドルの被りものを着たわたしがいて、中身は空っぽなの」
ゆうかは残っていたキャラメルマキアートを一気に飲んだ。
「アイドル候補生のオーディションするって聞いたとき、わたしね、正直なにそれ!?って思った。わたしじゃダメなのか?ってね。でもさ、そりゃそうだよねとも思ったんだ。アイドルなんてせいぜい二、三年でしょ。がんばったって五年だよ。事務所はその後のことも考えないといけないから。わたしだって考えていかなきゃ。アイドルでなくなってからも続いていく自分の人生を。空っぽになった自分を埋めていくことをしなきゃいけないんだ」
メロウは将来のことなんて考えてみたこともなかった。海の中にいたころは、ただ魚たちと一緒に泳いで、歌っていた。それはとてもシンプルだった。人間の世界は複雑だ。そのややこしさで、地上の世界はつくられている。でも、人間として生きていくには、それを分からなくてはいけない。もっと、 いろんなことを知りたい・・・あの人のことも・・・
「いいライブにしょうね」
ゆうかがそう言ってほほ笑んだ。
「うん」
夜を渡るすこし冷たい風が、ふたりには心地よかった。
***
メロウの初ライブ当日シゲヲは、対外的には兄ということになっているその特権を活かし、ライブ会場の最前列のど真ん中を陣取った。色とりどりのサイリウムもそろえた。指の間に挟めば八本はいける。その状態で、どうやって曲に合わせて腕を振ることができるのかは置いといて、シゲヲは目いっぱいの気合をいれていた。
会場の明かりが消える。
イントロが始まり、ステージに明かりがつくと会場が歓声につつまれた。シゲヲは、すでに感極まって泣き出したい気分をぐっとこらえ、ウォーっと叫び声を上げた。
メロウがステージに立った。
はじめて あなたに 出会ったあの時
なぜだか 懐かしくて 心が震えた
遠い昔 憧れてた 映画のように
そっとみつめあって ささやきあって
優しくキスをかわした
***
ドキドキ ドキドキ
この波打つような鼓動は、あの人と目が合ったときの感覚に似ている。歌うことが、こんなにも楽しいなんて、いままで知らなかった。海の中で歌うことは誰のためでもなかった。 人の前で歌うこと、目の前にいる人達のために歌うこと、その歌を聴いてもらうこと、これがこんなにもうれしいことだなんて。青や黄色、緑、赤、ピンク、紫、いろんな色の光が暗闇の中できらめいていて、やっぱりここは深海みたいだ。
***
会場の片すみ、暗いところに溶けこむように、ひとりの男が立っていた。右目に黒い眼帯をしたその男は、メロウが歌い終わるとニヤリと笑った。
***
ライブの様子は翌日すぐにアップされ、再生回数は瞬く間に増えていった。
― メロウ降臨!
― 神!
― 歌やばい!
― かわいすぎだろ
― むしろキレイすぎる
― 歌のクオリティがヤバイ
― ダンスがなー
― それな
― おっふ
― ひゃくまん おっふ
ネット上に、さまざまな言葉が躍る。
それをシゲヲは、ひとり夕飯を食べながらスマホで見ていた。おっふ、ってなんだよ・・・ネット世界は、考えてる以上にスピ―ドが早い。ここにある言葉もあっという間に使われなくなる。なんかアイドルみたいだな・・・シゲヲはそんなことを思いながら、マグロの刺身を一切れ口に放り込んだ。マグロの刺身はメロウの大好物なのだが、今夜も帰りは遅くなるらしい。CD発売が決定しメロウは急に忙しくなった。
CDの予約枚数は、事務所の予想をはるかに超えていた。
メロウはきっと売れる。
アイドル歴十五年のシゲヲは、そう確信していた。
と同時に、不安がよぎる。
いつの間にか使われなくなる言葉のように、メロウもまた消費されてしまうのではないか、そのサイクルのなかにメロウを入れたくはない、シゲヲは強くそう思った。
好きなアイドルを応援する、それだけの思いではなくなっている自分に気付き、シゲヲはブンブンと首を振った。
玄関の扉が開き、ただいまとメロウが帰ってきた。
「あれ?今日は早いね」
「ミーティングだけだったから」
ごはん食べる?と聞く間もなく、鼻をひくひくさせながらメロウが食卓に近づいてくる。
「やった!マグロだ!」
そのまま手で一切れつまむとパクリと食べる。
「もっと早く帰ってこればよかった」
「どこか寄り道してたの?」
「うん、ちょっと・・・」
また好きな人を探しに行ってたの、と聞きたい気持ちをシゲヲはぐっとこらえる。
メロウは二切れほど刺身をつまむと、そのままリビングへ行きソファに倒れこんだ。
最近では手放さずに持っている白い巻貝を耳にあて、メロウは目をつむっている。
肌が、またいちだんと透きとおってきたように思われる。
このまま透明になって消えてしまうのではないか・・・そう 考えてシゲオは、またブンブンと首を振った。
誰かと一緒にいるということは、その誰かの悲しみや苦しみに直接触れるということだ。それは自分にとっても、時につらい感情を呼び起こす。だがそれはつまり、その誰かの笑顔や喜びもまた一緒に分かち合えるということだ。メロウと過ごす時間のなかで、シゲヲはそれを理解した。
「CD売れるといいね」
メロウは目を開けると、シゲヲをみて微笑んだ。
CDは売れた。
秋にはソロライブを行うことが、公式HPで発表された。
***
わたしが喜ぶとみんなが喜ぶ。
わたしが悲しむとみんなも悲しむ。
仕事をしたそのあとでイベントに駆けつけてくれる。
休みの日なのに遠くのライブに来てくれる。
歌を聴いて「元気が出た」と言ってくれる。
彼らはなぜここまでしてくれるのだろう。
元気を、自信を、もらっているのはわたしたちなのに。
アイドルは彼らなくしてステージに立つことはできない。
だからわたしは歌って踊る。
***
水平線から沸き立つ入道雲が、空を白っぽく光らせている。 砂浜にそそぐ日差しの照り返しがまぶしい。
夏の恒例になっているファン感謝祭は、毎年入江にほど近い海辺で行われる。今年のイベントタイトルは「夏をあげる」だ。ライブと撮影会や物販のほかに飲食ブースもあって、一日中楽しめるようになっている。
シゲヲは、ダラダラと流れる汗をタオルで拭きながら、先ほどから林と言い争っている。
「だから、メロウは水が苦手なんです」
「ちょっとぐらいいいでしょ。波打ち際をキャッキャッとやるぐらいは」
「絶対にダメだ!」
「水がダメだっていっても、顔も洗うしシャワーだって浴びるでしょ」
そういいながら林は、メロウがレッスンの後でシャワーを使うところを見たことないなと思った。というより、汗をかいているところを見たこともなかった。
「海がダメなんです!」
水に濡れれば、きっとメロウは人魚の姿に戻ってしまう。 ここは俺が守らなければ・・・シゲヲは必死だった。暑さのせいなのか怒りのせいなのか、メガネを曇らせ頬を紅潮させたその顔に圧され、林はしぶしぶ水際には近づかせないことを了承した。
浜辺に歓声があがった。ゆうか、メロウ、ひなが水着姿で登場したのだ。
あーもー、かわいー、とシゲヲが心の中でもだえる。
あわい水色のビキニを着たメロウが、まぶしそうに空を見上げている。長い髪が風に揺れる。
身もだえているのはシゲヲだけではない。まわりの連中はすべてがそれぞれに身をよじらせていた。
騒動が持ち上がったのは、撮影会のときだった。
海から吹きつける風が、すこし強くなっていた。
どうしても波とたわむれるメロウの姿を撮りたいと、ファンのひとりが言い出したのだ。林が、水が苦手なのでと言ったところで、そもそも海のイベントで水に触れないなんてありえない、泳げと言っているわけではないのだ、ほんのすこしビーチを走ってくれるだけでいいのだと言い張る。
メロウは、どうしたらいいかわからずにたたずんでいた。
「ひなとだったら、大丈夫だよ」
そう言いながら、ひなが現れた。
― 世の中は不公平だ。
ひなは、半月ほど前の握手会に来た男のことを思い出していた。
事務所主催のデパート屋上で行われたイベントには、ゆうか、メロウ、ひなが出演し、ライブの後で握手会が行われていた。これが最後のお客さんだと連れてこられた小柄で痩せたその男は右目に黒い眼帯をしていた。
隣のメロウのブースから、楽しそうな男の笑い声が聞こえる。
「世の中は不公平だよな」
男はひなのこころを見透かすようにそう言った。
「あんたは、こんなにがんばってるのに」
ひなの顔から笑顔が消える。
「水だよ。大勢の人の前で水をあびさせてやればいい。そうすればあの子は泡のように消えてなくなる」
男はひなの耳元でそうささやくと、ニッと笑って立ち去った。
「ひなも、一緒に写っていいですか」
ファンの男が、ああ、うん、もちろんだよ、と答える。
― 世の中は不公平だ。
「たいしたことよ、ひなが手をつないでいてあげるから、ほんのすこし水に触れるだけだよ」
そう言うと、ひなはメロウの手をとり、海辺に向かって駆けだした。
― いなくなっちゃえばいいんだ。
メロウは抵抗することができずにいた。
― アイドルはたくさんの人に好きになってもらうこと
シゲヲの言葉が頭をよぎる。
それに、そんな力もなかった。浜辺の光は思った以上に身体にダメージを与えていた。それでなくても、ステージや撮影で光をあてられることが多くなったのだ。
風がまたいっそう強くなった。
ひなは、つないでいるその手がひどくか弱いことに驚いていた。・・・こんな身体でライブをしているの?・・・思わず、なんで?とつぶやいた。
「だって、アイドルだから」
ひなが振り向く。メロウと目が合う。メロウがひなに微笑みかける。
ひなは、その手を離した。
メロウの身体が倒れ、全身が波にぬれた。
その時、突然大きな落雷が海に落ちた。どしゃぶりの雨が降り出した。いつの間にか空は、黒い雲に覆われていた。イベント会場は一瞬にして大混乱に陥った。
「入江だ!入江まで泳げ!」
シゲヲは、そう叫んでいた。
***
海には十三夜の月が昇っていて、入江からはそれがキレイに見えた。突然の雷雨はとっくに過ぎ去っていた。
「知ってたんだ」
「うん」
「いつから」
「はじめて会ったときから・・・その・・・足がまだそんな感じだったから」
まだ身体が完全に乾ききっていないメロウの足には、ウロコがついていた。
「この浜辺に、あの人を運んだの」
「あの人って?」
「わたしの好きな人」
シゲヲがドキッとする。
「その人に会いたくて、ここに来たんだよ」
「でも、どこの誰かもわからないんだろ」
「それも、知ってるんだ」
「・・・なんとなく」
「運んできたってどういうこと?」
「板に乗って流されてた。だから助けた」
「それいつの話?」
「シゲヲと出会った、一か月ぐらい前」
漂流した人が助かったのなら話題になりそうなもんだけどな、シゲヲはそんなニュースはみてないなと思った。
「あの人を見つけることも、人間になることもそんなにむずかしいことじゃないと思ってた。愛を知れば人間になれるって」
「愛なんて、そんな簡単なもんじゃないよ」
「そうみたいだね」
「知ってたんだ」
「・・・なんとなく」
二人は笑い合う。
「このペンダント」
メロウはいつも首にかけている真珠のペンダントを手にしながら
「これ、もとはイヤリングだったんだ。彼を助けたときに片方あげたの。だからステージで歌ってるわたしをあの人が見れば、すぐにわかるはず。わたしが彼を助けた女の子だって」
「それでアイドルになろうと思ったんだ」
「うん、でもいまはそれだけじゃない。楽しいの毎日が。歌を歌って、それを聞いてくれる人がいて・・・一生懸命応援してくれる人のために歌うってことが、こんなにも幸せなことだなんていままで知らなかった」
「あっ」
「なに?」
「それが、愛だよ」
「そうなの?」
「そうだよ。それは、ひとつの愛するってことだよ」
「だとしたら、人間は気づいてないだけで、この世界には愛がいっぱいあるんだよ」
「・・・そうかもしれないね」
海の中、人魚の世界にも愛はあるのかなとメロウは考えていた。
***
海から帰ってアパートに近づいたとき、ガサっと音がした気がした。振り向いてみたが、暗闇には誰もいないようだった。気のせいかと、シゲヲは玄関の鍵を開けた。
***
姿を消すなんて言語道断だ!とメロウはアイドル活動の自粛を林から言い渡された。天候によりイベントは途中で中止になったが、その騒ぎの中でメロウがいなくなったことは問題にされた。だがいまのところ、ソロライブの中止は言い渡されていない。
メロウは朝からソファでゴロゴロしている。
夜勤明けで今日は一日家にいるシゲヲは、先ほどからメロウが助けたという少年の手がかりがないかとネットで調べている。
「海の上で、その人を助けたときって、ほかになんか浮かんでるものはあったの?」
「たくさんあったよ。いろいろなモノが一面に浮かんでた」
「船の事故かな」
「見たことないものがたくさん浮かんでた」
「たとえば?」
「この部屋にあるようなものが全部浮かんでた。あと車のタイヤとか、屋根みたいのとか」
なにかが思い当たり、シゲヲはパソコンに向かってキーワードを打ち込んだ。
***
スマートフォンから一枚の写真がツイッターにアップされようとしている。あのイベントで、大雨が海面をたたきつけるなか、波間をただようメロウの姿をとらえた写真が。
***
田中ひなのスマートフォンの中には、また別の写真があった。右目に眼帯をした男の言ったとおり、水をあびたらメロウは消えた。でもだから?それでどうなる?ほんとにいなくなるの?わたしの前から?メロウが心配だといって林に住所を聞いて様子を見にいったアパートで、ちょうどシゲヲとメロウが帰ってきた。思わずスマホをカシャリとしていた。シゲヲが兄かどうかなんでどうでもいい、男とふたりで暮らしているという事実がダメージになるのだ。ひなは、ツイッターの裏アカウントに写真をアップするために人差し指を動かす。
そして、その指を、その手を見る。メロウと手をつないだときの感触がまだ残っている。
***
「あっ」
思わず、シゲヲが声を上げた。
「どうしたの」
「ああ、うん、いや」
シゲヲがろうばいしている。不審に思ったメロウが、ソファから起き上がり近づく。シゲヲは必至にパソコンの画面を隠そうとするが、抵抗もむなしくメロウはその画面をのぞきこむ。
『奇跡が育んだ愛 あれから七年 結婚する二人を地元の人々が祝福』
『七年前の津波に流され一週間漂流した後に助かり奇跡の少年と話題になった宮間透さんと海岸で宮間さんを助けた岩下美紀さんが7年の交際を経て昨日地元に新しくできた市役所庁舎前で結婚式を挙げました。宮間さんは学業を続けながらボランティアとしても活動し大学を卒業後、地元の市役所に就職したのを機に岩下さんとの結婚を決意しました。お世話になった人たちに喜んでもらえたらとここで結婚式をあげることにしたものです。これからは二人でこの町のためにがんばっていきたいと誓っていました』
シゲヲは、タイヤや家具も一緒に浮かんでいたことを聞き、七年前の大きな津波のことを思い出した。そしてこの記事がヒットした。そういえばずいぶん話題になってたなと、今更ながら思い出した。メロウのあの人は見つからないわけだ。もう七年も前のことだったのだ。人間と人魚では時間の経ち方が違うのだ。海の中のメロウにとっては一か月のことも、人間とっては数年にもなってしまう。少年は大人になり結婚する。メロウが彼を助けたことなど知らないまま・・・。
幸せそうに微笑む女性の胸元には、美しい真珠が輝いていた。
***
朝から鳴る電話の対応に林は追われていた。ネットの中では足りない奴らが、電話を掛けてきてまで誹謗中傷をする。電話を叩きつけ、くそう!と林は悪態をつく。また電話が鳴る。そうしながらも、林はいまも拡散し続けられている二枚の写真のことを考えていた。一枚はシゲヲだ。なにが兄ですだ!身元調べはもっときちんとするべきだった・・・シゲヲの過去はすべてがさらされ、もはやメロウの兄ではないことは明白だ。そしてもう一枚、これはあのイベントの時の写真。漂っているようにも泳いでいるようにも見える。が、もはやそれはどうでもいい。メロウの身体から跳ね上がっているように見えるのは魚の尾ヒレだった。写真は遠くから撮られているし、ぼけているから実際にはよくわからない。でも、あのシゲヲという男が兄でないのなら、メロウはいったい何者なんだ、メロウはどこから来たのだ・・・まさかな・・・、林はその考えを振り払うように、さっきからしつこく鳴っている電話の受話器を取った。
***
とつぜん牧野ゆうかが、アパートにメロウを訪ねてきた。
「ちょっと散歩しない」
「でも」
「大丈夫だよ、わたしと一緒なら」
平日の昼間の公園は、ベンチで座って居眠りをしているおじいちゃんと、子どもを遊ばせている親子連れが二組ぐらいいるばかりで、のどかなものだ。
「どーすんの、ソロライブ?」
二人は並んでブランコに揺られている。
「チケットはソールドアウトだって。林はね、このさわぎに乗ってやるつもりだよ。CDも売れるだろうって」
メロウは黙ったままうつむいている。
「わたしね、自分が空っぽみたいって言ってたでしょ」
ゆうかは、立ち上がってブランコを力強く漕ぎだした。
「でもね、空っぽじゃないってわかった。わたしも歌うことが好き。メロウが楽しそうに歌うところを見てたら確信できた。わたしの中にはそれがあるって」
ブランコが揺れるたび、ゆうかのスカートがひらひらと舞う。
「わたしアイドルを続けるよ。これでもかってぐらいアイドルであり続けてやるんだ」
そう言って、ゆうかはブランコから勢いよく飛び降りた。
「なにか伝えたいことがあるなら、それはステージの上で伝えればいいよ。わたしは応援してるよ」
***
秋になるといっきに日は短くなる。照明が灯された野外ライブ会場に吹く風は冷たく湿っていた。
メロウがステージに立ったとき、空はすでに小雨だった。
イントロが始まるなか、メロウは屋根のかかってないステージ前方へ一歩ずつ足を進めた。
雨粒がポツリポツリとメロウの身体にあたる。メロウは大きく息を吸うと歌いだした。青く透きとおったみずみずしい声がライブ会場に響き渡る。
その歌声は、とてもやさしく、とても美しかった。
最後の音が終わったとき、会場はしんと静まりかえっていた。
雨がすこし強くなった。
だが、帰ろうとする者は誰もいなかった。
― みなさんにお話しなければならないことがあります。
メロウが静かに話しはじめた。
― わたしには好きな人がいました。わたしは、その人に振り向いてほしくてアイドルになりました・・・ごめんなさい。
観客がどよめく。
メロウの身体からゆらゆらと泡沫が沸き上がりはじめた。
― わたしは言葉をもらいました。
― わたしは歌をもらいました。
― わたしは笑顔をもらいました。
― わたしは愛をもらいました。
― わたしがここにいることができるのは、みんながいてくれるから・・・
― だから、わたしは、わたしの大切なものをこのステージでささげたいと思いました。それは・・・
そこで言葉は途切れた。もう後の言葉を聞くことはできなかった。
ガラスが砕けるようにメロウの身体がくずれ落ちた。
と同時に、ステージの照明が突然消えた。
あたりは闇に包まれ、ただ雨の音だけが会場に聞こえた。
言葉を発する者はだれもいなかった。
ステージの明かりが再び点ったとき、メロウの姿はどこにもなかった。
翌日は大騒ぎだった。
― メロウはやっぱり人魚だったんだ
― いや宇宙人?
― 事務所が仕組んだイリュージョンじゃね?
― いやいや、出来すぎでしょ
― どっちにしても、かわいいからゆるす
― 禿同
― でも、結局ファンを裏切ってたってことだろ
― 禿同
― CD売れてるらしいよ
― オレもポチってしまった
― 最後に言いかけてたよね
― てか、メロウっていまどこにいるの?
***
あるファンの話
給料が入ると生活費以外はすべてアイドル関係に使う感じですね。全国を回るようになると、けっこう交通費もかかりますからね。やっぱりできる限り観たいじゃないですか。現場重視なんですよね。ツイッターとかSNSで知り合った人たちと現場で会ったりするのも楽しかったりします。いい奴多いんですよ。あっ、でも僕は生誕祭の実行委員になったりとかそこまではないんですけど。
アイドルが好きだからといって、その子と付き合いたいとか、つながりたいとか、そういうのはないですね。その子がステージに立ってる姿が、ようするに一番好きなんです。そこに光があるんです。僕らを照らしてくれる光が。とにかくみんな現場に行ってみたらいい。アイドルはステージです。
メロウの照らしてくれる光は特別でした。少なくとも僕にとっては。メロウは、まあアイドルっぽくないというか、笑顔で「ありがとうございます!」って言ってくれるんだけど、ぎこちないんですよね。ずっとぎこちないままだったな。そこがいいところでもあるんですけど。歌が超絶うまいところも、アイドルっぽくないというか。何回も握手会に行ったけど、いつも手が冷たいんですよ。アイドルの子たちって握手する前に手を温めたりするじゃないですか、一生懸命こすり合わせて、僕らに暖かい手を差し出すっていうか。メロウの手は触れると氷みたいにひんやりしてました。「あたたかくならないんだ」って言ってましたね。僕、推しを失うって経験をいままでしたことがなくて・・・こんなにも空っぽになってしまうんだって、初めてわかりました。
でも、僕の中にいまもメロウはいるんですよ。
こころの中でキラキラ輝き続けているんです。
***
騒動のあいだ、YouTubeの動画は再生され続け、CDはとぶように売れ続けた。
炎上はカネになる。夏のイベントの写真をツイッターにアップしたのは事務所のスタッフだった。
林は、それを後で知った。
一か月もすると騒ぎは自然に収まっていき、三か月もすると人びとの興味は他のことへ移っていった。
***
田中ひなは世の中は不公平だと今も思っている。が、すこしはそれを受け入れることができるようになった。嘆いてみたところで、なにかが変わるわけではない。ひなは今日もステージで歌い踊る。
林は、マネージャーの仕事をやめ、実家の家業を継ぐことにした。もうたくさんだ、と社長に言い放ち事務所を出ていった。海にほど近い故郷の家はクリーニング屋を営んでおり、作業の合間に海を眺めることができる。
牧野ゆうかは、大手プロダクションに移籍し、アイドルとしてだけでなく女優の仕事もすこしずつ入ってくるようになった。演技の評判もなかなかいい。一生現役一生アイドルが目標だ。
片目の男の行方はわからない。彼が何者であったのかもわからない。でも世界にはそういうモノが存在する。人をまぎらわせ暗闇に誘い込もうとするモノが。あるいはそれは、すべての人の中に、存在するモノなのかもしれない。
そして今日も、新しい一日がはじまる。
***
入江の浜辺にシゲヲが立っている。
太陽が海面に顔を出そうとしている。
― メロウが好きだったもの
マグロの刺身、バナナチョコクレープ、白い巻貝、ベランダを吹く風。
そして、歌うこと。
シゲヲはスマホをポケットから取り出す。
YouTubeのチャンネルは閉鎖されたが、今もメロウの動画は見ることができる。特にソロライブの映像は、何かしらの感動を観た人に呼び起こすらしく、いまも好意的な、あるいは熱烈なコメントが寄せられている。
ある日こんなコメントが書き込まれていた。
― 彼女のペンダントと同じような真珠を妻が持っています。妻にプロポーズする時にプレゼントしたものです。メロウを見ていると、なぜだか懐かしいような気がします。なにか大切なものを忘れてしまったような気がします。一度ライブで彼女の歌を聞いてみたかった・・・。
再生を押す。
海辺にメロウの歌が響く。
青く透きとおったみずみずしい声。
シゲヲは、メロウが残した白い巻貝を取り出しスマホに近づけた。
これは合図だ。
太陽が昇りはじめ、海面にキラキラとした光の道ができた。
その彼方でなにかがきらめく。
― あの時
ライブ会場の照明を落としたのは、ひなだった。なぜそんなことをしたのか、ひな自身いまもよくわかっていない。ただ身体が勝手に動いたのだ。
林はステージ上に走った。くずれ落ちたメロウの身体はまだそこにあった。人魚の姿に戻りかけの足にはウロコがあったが、それは林の目の前でボロボロとはがれ落ちていった。
「海だ!」と叫んだのは、猛ダッシュでステージに登ってきたシゲヲだった。「車!」「わかった」林が駆け出す。
ゆうかが濡れたバスタオルでメロウの身体をすっぽりと包んだ。
シゲヲは海へ車を走らせた。あの浜辺へ。
海の中へ身体が落ちていくとき、メロウが言った。
― またいつか、ね。
白い巻貝は、地上と深海を結ぶ通信機だ。
メロウが、泡沫に消えてしまったのか生きているのかわからなかったが、白い巻貝に向かってシゲヲは毎日話しかけた。
今日の出来事、さわぎの様子、いまも少なからぬ人がメロウの歌を聴いていること・・・。
ある日、巻貝を耳にあてていると、かすかに歌声が聞こえてきた。
― 地上がすこし落ちついたら、戻っておいで。僕が合図を送るから。
光の道をなにかが近づいてくる。
ザブン
文 どうまえなおこ